2015年08月17日
に落ちて散らば
「おい。何やってんだ。レジやってくれ!」
いらだたしげな、店長の声が響いた。
横目でうかがうと、いつの間にかカウンターの前には、五、六人の客が並んでいる。着色した髪と疲れた皮膚をした、夜行性の若者たちだ。
信一は、そっとピンクのサングラスを上げて目元を袖口《そでぐち》で拭《ぬぐ》うと、走っていった。
「こちらへ、お願いします」
蚊の鳴くような声で後ろに並んでいる客にそう言い、もう一つのレジを開けた。店長は、露骨な侮蔑《ぶべつ》を含んだ目で、信一をにらみつけた。
「千六百、七十五円です……二千円から、お預かりします」
たいていの客は、コンビニの店員を人間とは思っておらず、信一と目を合わせようともしない。それが、今の信一には唯一の救いだった。
「ええと、二千九百、七十九円です」
次に目の前に来た娘は、どことなく『紗織里ちゃん』に似た風貌《ふうぼう》だったので、少しどきりとした。財布から、きっちりと端数までコインを選び出している。『紗織里ちゃん』も、水瓶座のA型で几帳面《きしようめん》な性格であることを思い出す。
だが、すぐに娘は、優しい『紗織里ちゃん』とは似ても似つかない性格であることを露呈した。信一が掌《てのひら》を出すと、娘は、指が触れるはるか以前にコインを落とした。まるで汚いものに触れるのを避けようとするかのような動作だった。
コインはカウンターの上ったが、信一が拾い集めている間に、娘はさっさと買い物袋を持って出ていってしまった。
「ありがとうございました」
そう言ってからコインを数えたが、百円足りない。
どきりとした。しまった。どうしたらいいだろう?
コインを持って困っている彼の前に、次の客がどさりとかごを置いた。早くしろと言わんばかりに、彼をにらむ。
「あの、店長……」
だが、店長は彼を無視して、猛烈な勢いでキーを叩《たた》いていた。
やむを得ず信一は、百円足りないまま、次のレジを打った。あの、馬鹿女め。わざと少なく払いやがって。外見だけで、『紗織里ちゃん』に似ているなんて少しでも思ったのが間違いだった。
あれは蜘蛛みたいに邪悪な女だ。蜘蛛女だ。蜘蛛女蜘蛛女蜘蛛女蜘蛛女蜘蛛女……!
客がいなくなってから、信一は自分の財布を出して、レジに百円玉を入れようとした。金を取るのなら犯罪だが、入れるのだからオーケーのはずだと思っていた。まさか、あれほどひどく叱責《しつせき》されることになるとは夢にも思っていなかった……。
信一は、冷めてしまった紅茶をがぶりと飲んだ。睡眠時間を削《けず》って、これ以上あんな不愉快なことを思い出していてもしかたがない。
デスクトップのアイコンをクリックして、インターネットに接続する。
『お気に入り』に登録されたアダルト?サイトをいくつか巡回したが、完全露出の画像にも食傷気味で、見たいとも思わない。それでもつい習慣で、ロリータや、SMなどの画像をいくつかダウンロードした。ホモセクシュアルやスカトロ、獣姦《じゆうかん》の画像などもあったが、趣味に合わないので、見てみることもしなかった。
一通りページの巡回が終わると、信一は、インターネットとの接続を切った。
ほんの半年ほど前には、信一は重度のインターネット中毒患者だった。一日十数時間をネット?サーフィンに費やし、食事や睡眠すらろくにとらないような日々が続いた。文字通り寝食を忘れて、国内や海外のアダルト?サイトを探訪していた。一つのサイトには、また別のサイトへのリンクがあるため、際限がなかった。インターネット中毒とは、一種の情報中毒であり、途中でやめるのは困難だった。だが、たとえアダルト関係に限っても、すべてのぺージを見尽くすのは、百年かかっても不可能である。それどころか、日々新しいサイトが生まれ、更新されていくのだ。
インターネットのシステムであるいう言葉を思う。それは、世界中に張り巡らされた蜘蛛の巣を意味している。自分は、この蜘蛛の巣に危うく絡《から》め取られてしまうところだったと思う。これは、偶然の暗合なのだろうか。そもそも自分は、なぜ、いつから、これほど蜘蛛を恐れるようになったのだろうか。